[Essay] 「何で大学に来たんですか?」

数回の転職の末に現職に就いているためでしょうか、年に数回、表記のような質問を受けますので、経緯も含めて簡単に説明します。

* なりたかった職業は

なりたかった職業はなんですか、と問われると、答えに窮する。まだ小学校に上がる前の小さいころは電気屋さんになりたいなどと思っていたはずで、それを引っ張り出してきて答えることもある。しかし学生のころの自分がどのような職業意識を持っていたのかは、問われても説明し難い。自分でもよく分からないからだ。

自分がスポーツや肉体労働には向いていないのは明らかだったし、目立ちたがりのところもあるので、知的生産活動を行う職業に憧れがあった。が、具体的な職業までは考えていなかったはずだ。むしろ、どのような仕事に就いてもやっていけるようになりたいという基礎力願望があったように覚えている。スペシャリストではなく、スペシャリティを持ったジェネラリストになりたいと思っていた。つまり広い分野にわたる深い見識があり、かつ、ある分野に関しては世界最先端の知識を有している人が理想だった。

このような理想の少なくとも一方を満たすためには、大学院の博士課程まで進学するのが、まあおそらく常道といってよい選択だろう。自分でもそう考えていて、そういう進路選択をした。

* さいしょの就職、2度目の就職

1999年秋に大学の博士課程を修了し、そのまま同じ研究室の助手に採用された。定職にはじめて就いたのはこのときだが、これはいわゆるポスドクで、できるだけ速やかに次の職場を見つけて去るように、と言われていた。雇ってくれた教授は「緊急避難」と言ったがうまいことを言うと思った。おかげで履歴書には空白期間がないように見える。(実際には数日の空白期間があるが、たとえば10月に博士課程を修了し11月から雇われているというように、見掛け上は空いていることが分からない。)

キャビテーションで学位をいただいたので、当時は同じ分野での就職を考えていた。教授もいろいろと口を聞いてくださったのだが、まとまらなかった。これは私の能力不足もあるのだが、ポストが空いていないという事情もあった。

そのころに船舶技術研究所(現・海洋技術安全研究所)氷海技術部のある研究プロジェクトに大きな予算がつき、ポスドクを探しているということで教授のところに話があった。直接の専門とは異なる分野だったが、同じ研究室の研究テーマだったこともあり、門前の小僧なんとやらで多少の知識はあったので、是非にとお願いして押し込んでいただいた。

考えてみると不思議な縁ではある。1995年秋に大久保で氷海に関係する大掛かりな国際シンポジウムがあり、私はそれのお手伝い要員として参加していたので、船研氷海技術部のみなさんや研究プロジェクトの方々とは多少の面識があった。当時私は修士課程2年生で、氷海の研究はしていなかったし自分の研究に忙しかったはずだが、行くはずだった後輩が目の病気で行けなくなり、代打で駆り出されたのだ。そのシンポジウムの縁で今でも付き合いがある友人がいるし、またポスドクの話もトントン拍子で決まった。そのときには気づかなかったが、いま思い返してみると運が良かったと思える。

* 大学へ

2001年正月から船舶技術研究所で働きはじめた。まずは氷海技術部の仕事を覚えながら、研究プロジェクトを進めるためにいろいろと調べものや作業をする日々が続いた。運輸省が建設省とくっついて国土交通省になり、その管理下の国立研究所だった船舶技術研究所が独立行政法人海上技術安全研究所に改組するタイミングだったので、いろいろと得難い経験もできた。

研究プロジェクトは2003年3月までだったので、それ以降の仕事を2年で見つける必要がある。まずは海技研への常勤就職を目指し、公務員試験を受けるなど活動したが、2001年にはポストが空かなかった。いま思い返してみると積極的に活動したとは言えないかもしれない。あと2年あるやと思っていたため、危機感が弱かった。まあいずれにせよポストは空かなかっただろうが。

海技研での常雇いが難しくなった夏以降から、外の就職先を探しはじめた。何せ危機感が弱いから、そのころは都内の研究機関限定で探していた。来年まで決まらなかったら、もっと幅を広げて探そうと思いながら。

現職の公募がかけられたのがそのころだ。これはあとで聞いた話だが、通例では6月ごろから公募するのに、そのときは事情で遅くなったのだそうだ。都内の研究機関で、流体工学を専門分野とする講師または助手の公募だったので、私にとっては願ったりかなったりの公募だった。それと氷海技術部には工学院大学のOBが2人もいて、お二人ともとても有能で重要な仕事をしていたので、わたしのなかでは工学院大学の評価はとても高かった。当時の上司に許可を得て─許可を得られたこともいま思うとおおらかだったなぁと思うが─公募に応募した。その後、書類審査や面接を経て、現職に就くことができた。

* 消極的な理由、積極的な理由

このように書き連ねてみると、現職に就いている積極的な理由があまり出ていないように思える。実際、大学以外の就職口も探していた。しかし第一候補が大学だったのは間違いない。

なぜかと言えば、いちばんの理由は、研究テーマを自分で決められるということ。研究職で、自分で自分の研究テーマを決められる職業はあまりない。その数少ない場所が大学だった。「やりたいことができる、かもしれない」というのは金野にとって魅力で、大学を第一候補にしていた。

研究所にいるときに感じていたのだが、研究テーマの自由度はそれほど高くない。研究所が主体的に行う研究は、おそらく全体の半分に満たないだろう。残りは受託研究などの形で人からお願いされてやる研究だ。大学でも受託研究はあるのだがその割合は研究所ほど多くはない。金野の場合、2005年度の研究テーマは大きく分けて6つ。そのうち受託研究は1つだけで、残りは金野がやりたいテーマを選んである。こんな勝手なこと!?が許されるのは、大学ぐらいなものだろう。

* 向いている?

理由をもうひとつ。たぶん大学講師の職は、金野に向いているだろうと思っている。複数の友人知人からそういわれた。研究者というよりは教育者に近いタイプの人間のようだ。

前の職場から今の職場に移ることが決まり、事務の仕事をしてくださっていた方にその話をしたときに、とても喜ばれたのをよく覚えている。「金野さんなら絶対向いてるわよ、前からずっとそう思ってたもん」。教育の仕事をいっさいしていない職場でそのように言ってもらえたことはとてもうれしかった。大学での仕事をしていく上で、自信と励みの源になっている。

(2005-11-16)

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工学院大学機械工学科流体研

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金野 祥久  konno@researchers.jp

Last modified: Wed Nov 16 19:25:40 JST 2005