Final Update Nov. 24, 1997

一歩外国に出れば

私の海外での外国語にまつわる体験談

オスロにて

 1984年6月、夏至の頃、私はノルウェーの首都オスロで学会に参加していた。 この学会の晩餐会で隣り合わせた英国出身のコンサルタント会社のエンジニアが、 自宅に招待してくれた。学会が終わった翌日、 オスロから電車で20分ぐらいの郊外の「シー」という、 スキーのメッカにある彼のうちを訪ね、楽しく談笑した。 ノルウェーの人たちは例外なく(少なくとも私が出会った人たちはすべて) 英語が得意で、意志疎通に困ることはなかった。
 その人がちょっと用事を足している間、中学生の息子が町を案内してくれた。 彼は英語を勉強し始めて3ヶ月しかたたないと言う。 しかし、たどたどしいながらも、スキー発祥の地の初めてのジャンプ台などを 紹介してくれて、十分な意志疎通ができた。 ちょっと難しい単語でしゃべると理解できず、 説明をし直す必要があったりしたが、それにしても、 たった3ヶ月ぐらいでそれほど英語ができるようになるものかと感心した。

アムステルダムのガイドさん

 昔、アムステルダムで運河巡りの観光船に乗ったときのこと。 ガイドのおばさんがはじめに「今日は何語で案内をしましょうか。 英語の人、フランス語の人、ドイツ語の人」と聞くと数人ずつが手をあげる。 「今日は英語、フランス語、ドイツ語だからオランダ語は省略させて もらいますよ。」といって、有名な橋や建築物を通り過ぎるまでに早口で 英独仏3カ国語での説明をこなしてしまうのであった。 オランダ人もたくさんいたであろうが、オランダ語の説明がないことに対して 文句を言う客はいなかった。 オランダだけでなく、スイス、ノルウェーなどヨーロッパの小国では みんな英語をよくしゃべる。ガイドさんでもホテルの受付でもレストランでも、 4、5カ国語がしゃべれることはあたりまえ。 通訳も最低3カ国語をしゃべれることが条件だそうだ。

Gersten先生の誕生パーティー(ボッフムにて)

 私がドイツに留学して、語学研修を終え、 ボッフムの大学に移ったのは1984年8月のことであった。 お世話になっていたGersten教授から、自分たち夫婦の(実は正式の夫婦では なかったのであるが) 誕生パーティーがあるので遊びに来い、というご招待をいただいたのは 8月下旬のことであった。お二人の年齢を足して99歳になるという。
 20人ほどの招待者がいた中で、外国人は私たち夫婦とアメリカから たまたま来ていたアリゾナ大学(だったと思うが)教授のGrossさん夫妻 だけだった。Gross教授はドイツ語が堪能で、母国語と区別が付かないほど 上手であったが、奥さんはまったくドイツ語がしゃべれない、 とのことで紹介された。パーティーもたけなわ、 炭火で焼かれたステーキを食べながら、数人ずつの輪ができ、 話に花が咲いていた。私がいたグループに、食べ物を取ってきたのか Gross婦人がふらっと紛れ込んできた。そうすると、 それまでドイツ語ではずんでいた会話はいつの間にか英語に変わっていて、 話の内容はとぎれることなく継続していたのである。 誰とはなしに、彼女に対する気配りから、 意識してかどうかはさだかではないが、 言葉が英語に変わってしまっていたのである。

Kestin教授の講演(ボッフムにて)

 やはり私がドイツに滞在中のこと、Kestin教授がアメリカからやってきて、 講演をした。Kestinという名前は、我々流体力学を勉強したものにとっては、 Schlichtingの「境界層理論」をドイツ語から英語に翻訳したことで有名で、 雲の上の存在であった。その先生が直接講演してくれるとあって、 教室はにぎわっていた。
 Kestinはポーランド生まれで、ドイツで勉強をし、 イギリスで長年流体力学を講じていた、とのことであった。 そのころはアメリカに移って、コーネル大学の教授であった。 開口一番、「最近はアメリカにいるので、今日は英語で講演させてもらいますよ」 といってしゃべりだした。 その英語たるや、耳を疑うばかりのきれいなQueen's Englishなのである。 隣にいたGersten教授が小声で「彼の英語はすばらしいだろう。 ある時親しいイギリス人に、彼の英語が母国語でないとわかるか、 と聞いたことがある。そうするとそのイギリス人は 『イギリス人はあんなにパーフェクトな英語をしゃべらない』と答えた。」 とささやいた。講演中にも関わらず、私は吹き出しそうになってしまった。
 講演が終わって質疑応答の時間になった。 ドイツ人の聴衆たちが例によって活発な質問を浴びせる。 それに対して的確な応答が返ってくる。質疑に熱がこもってくるにつれて、 ドイツ人の質問の中にドイツ語の単語が期せずして混ざってしまうことがある。 そうすると、Kestin先生もドイツ語をまじえて対応する。 しばらくするうちに、質疑はすべてドイツ語で行われていた。 たぶん、本人たちは(質問する方も答える方も)言葉が変わっているという 意識はほとんど無いのでなかろうかと思われた。
 後で聞いた話では、Kestin教授は8カ国語を自由に使えるのだそうだ。 ポーランド出身だからポーランド語とロシア語、学生時代以後学んだのであろう ドイツ語、英語それにフランス語やスペイン語やイタリア語は 教養としてしゃべれて当然、まだひとつ足りないがそれは何だか聞き損ねた。 ポーランドと言う国は不幸な運命を背負った国で、東から、西から、 しょっちゅう攻められ、占領されてきた。おかげで、ポーランドの人は たくさんの言語を覚えざるを得なかったのであろう。  この講演会で彼は二層流の理論的取り扱いについて講演を行ったが、 私は言語に対する認識を新たにしたことの方が はるかに記憶に残る出来事であった。

Richardとお母さん

 リヒャルトが1ヶ月のホームステイで我が家にやってきたのは 5年ほど前の夏であった。 経済学の専攻で、ドイツで唯一の私立大学であるWitten-Herdecke大学に 在学中で、1年間の予定で東京経済大学に留学してきていた。 下宿が決まるまでの仮住まいであった。 下宿に移ってからも、私のところで尺八を習いたいと言うことで 毎週通ってきていた。体の大きな割には素直で、しかしちょっと 神経質なところもある好青年であった。
 さて、彼は日本滞在中にさまざまな親戚や友人を日本に招いて 案内などしていた。彼のお母さんがHannoverからやってきたので 我が家ですき焼きパーティーなどして楽しく過ごした。 食後にみんなで話していたが、上の娘が英語の方が 楽だというので、途中からみんな英語で話していた。 お母さんは英語と歴史の先生だそうで、英語はうまかったし、 リヒャルトも英語は得意なようであった。 当時、旧ユーゴの戦争が活発であったので、その話になったとき お母さんが数百年前からの民族や宗教上の対立について 詳しく説明してくれていたが、 リヒャルトとお母さんの間で記憶に違いがあり、 軽い論争になった。
 普通なら、親子で論争をするときは、母国語のドイツ語で 話しそうなものであるが、両者とも英語で議論することに まったく不自由を感じていないこともあり、 英語のままで言い合っているのであった。 彼らにとって、文法的に近いとはいえ、外国語で喋ることが かくもたやすいことなのかと、感心させられたものである。
 リヒャルトは、その後三井物産の現地法人に就職し、 デュッセルドルフで元気に活躍しており、時々は 訪問して食事を共にしたりしている。彼が日本に来たときには 電話をくれるが、「3日間しか日本にいない」などと あわただしいビジネスツアーで来ることが多くなって 一緒に尺八を吹くチャンスはほとんどなくなってしまった。 昨年秋には、FreundinのGisaと結婚した。彼女の方は 医学部の学生で、卒業までにまだ2年ぐらいあるとのこと。 勉強に明け暮れている。
水野宛のメールはmizuno@fluid.mech.kogakuin.ac.jpまで

もどる
水野明哲ホームページへ